何て書いてあるの?開運!南無妙法蓮華経!「妙法蓮華経 譬喩品 第三」(現代語訳)

南無妙法蓮華経

妙法蓮華経 譬喩品 第三(現代語訳)

その時、尊者舎利弗は、満足して、心が高揚し、狂喜し、愉悦し、喜悦と歓喜を生じ、世尊のおられるところに向かって合唱して敬礼し、世尊を仰ぎ見ながら、次のように世尊に申し上げた。

「世尊よ、世尊の間近で今、このような言葉を聞いて、私は不思議で驚くべき思いに満たされ、大いなる歓喜を得ました。それは、どんな理由によってでしょうか。世尊よ、私は、これまで世尊の間近でこのような教えを聞くことがなかったので、ほかの菩薩たちを見たり、菩薩たちの得る未来の世におけるブッダとしての名前を聞いても、私はこのような如来の知見から落伍していると思って、とても悲しみ、大変に悩んでいたからです。そして、世尊よ、昼間の休息を取るために、山や岩の洞穴、森や林、園林、河、樹木の根もとといった静かなところに行くときも、私はいつもこのように悲しみ、悩みながらそぞろ歩きをして休息をとっておりました。『確かに真理の世界に入る事は同じであっても、世尊は私たちに貧弱な乗り物(小乗)を与えられたのだ』と。

また世尊よ、その時、私に次のような考えが生じました。

『この過ちは、実に私たちのものであって、世尊の過ちではない』と。

それはどんな理由によってでしょうか。

もしも卓越した説法、すなわちこの上ない正しく完全な覚りについての脱法を私たちが、世尊に期待していたならば、世尊よ、私たちは、まさにそれらの法において完成されたことでありましょう。

しかるに世尊よ、菩薩たちがまだそばにいなかった時、世尊の深い意味が込められた言葉を理解しない私たちは、如来がまさに最初に語られた説法を聞いて、性急にそれを究極の教えだと思い込んで、受持し、修行し、思いをめぐらし、考えました。そのために、世尊よ、この私は実に自分を非難することによって、昼と夜の大部分をすごしているのです。

けれども、世尊よ、私は今日、安らぎを得ました。世尊よ、私は今日、完全に解脱しました。世尊よ、私は今日、阿羅漢の位に達しました。

世尊よ、私は今日、世尊の最年長の息子としてブッダの胸から生まれ、口から生まれ、法から生まれ、法から化作され、法の相続人であり、法によって完成されました。世尊よ、私は今日、今まで聞いたこともないようなこのように驚くべきこの法を世尊の間近で世尊の言葉を通して聞いて、苦悩が取り除かれました」

舎利弗からこのように言われて、世尊は、尊者舎利弗に次のようにおっしゃられた。

「舎利弗よ、神々に伴われ、悪魔に伴われ、ブラフマー神に伴われたこの世間の人々の面前で、また沙門やバラモンに伴われた人々の面前で、私はあなたに語り、あなたに分からせてやろう。

舎利弗よ、私はあなたを過去から現在に至るまで、二百万、コーティ、ユナタものブッダたちのもとで、この上ない正しく完全な覚りに向けて成熟させたのである。

また、舎利弗よ、あなたは長い歳月にわたって、私から学んだのである。舎利弗よ、あなたは、あなたが菩薩であるという教誠に沿って、またあなたが菩薩であるという秘密によって、今の法の中に生まれてきたのである。

舎利弗よ、そのあなたは、私がかつて菩薩であった時に加えた不思議な力、加持によって、あなたがなしたその過去の修行と誓願、さらにはあなたが菩薩であるという教誠、あなたが菩薩であるという秘密を思い出すことがないのだ。

それなのにあなたは、『私は安らぎを得ている』と思っている。

舎利弗よ、その私は、あなたが過去において修行したこと、誓願したこと、知を覚知したことをあなたに思い出させることを欲していて、私は、この広大なる菩薩のための教えであり、すべてのブッダが把握している、白蓮華のように最も勝れた正しい教え、という法門の経を声聞たちに説き明かすのである。

またさらに、舎利弗よ、あなたは、未来の世に世間において、量り知れず、考えることもできない無量の劫にわたって、幾百、千、コーティ、ナユタもの多くの如来の正しい教えを受持して、また種々の供養をなして、まさにこの菩薩としての修行を完成して、紅蓮華の輝きを持つもの、華光という名前の正しく完全に覚った如来で、尊敬されるべき人となり、学識と行ないを完成した人で、人格を完成した人で、世間をよく知る人で、人間として最高の人で、調練されるべき人の御者で、神々と人間の教師で、目覚めた人で、世に尊敬されるべき人となるであろう。

舎利弗よ、さらにその時、その世尊である華光如来の芥のない、離垢という名前のブッダ国土は、平坦で、喜びにあふれ、素晴らしく、最高に極めて美しく、全て清らかで、豊かで、繁栄しており、安隠で、豊富な食料に恵まれ、多くの人々と女性の群衆が充満し、また神々が入り乱れ、大地はは琉璃で造られ、八方に道が伸びるロータリーに黄金の糸が張られているであろう。そして、それらのロータリーには、宝の樹々があって、七宝からなる花と果実を常に着けているであろう。

舎利弗よ、その華光如来もまた、まさに三つの乗り物について法を説くであろう。さらにまた、舎利弗よ、その如来は汚濁した時代に出現することはないであろう。けれどもなお、誓願の意思によって法を説くであろう。

また、舎利弗よ、その劫の時代は、貴重なる宝石で飾られたもの、大宝荘厳という名前であろう。舎利弗よ、あなたはそれを何と考えるか。

いかなる理由によって、その劫は大宝荘厳と言われるのか。

舎利弗よ、ブッダの国土においては、覚りを求める人である菩薩たちは宝だと言われるからだ。

その時、その離垢という世界には、それらの多くの菩薩たちがいるであろう。それらの菩薩たちは、無量、無数で考えも及ばず、比べることもできず、量ることもできないもので、如来による計算以外では計算を超越しているのだ。そういう理由によって、その劫は大宝荘厳と言われるのである。

さて、その時、舎利弗よ、それらの菩薩たちは、大部分がそのブッダの国土において、一歩ごとに足の下に生ずる宝石の紅蓮華の上を遊歩するものとなるであろう。

また、それらの菩薩たちは、覚りを求めて初めて発心したものたちではなく、長い間、善い果報をもたらす立派な行いを積み、幾百、千もの多くのブッダたちのもとで純潔の行ないを実行し、如来によって称賛され、ブッダの智慧に熟達し、大いなる神通を身に具えて出現し、あらゆる法の導き方に精通し、温和で思慮深いであろう。

舎利弗よ、そのブッダの国土は、ほとんど全くこのような菩薩たちで満たされるであろう。

さらに舎利弗よ、その華光如来の寿命の長さは、ブッダとなる前の王子であった時のことを除いて十二中劫であるだろう。

またそれらの衆生の寿命の長さは、八中劫であるだろう。

また、舎利弗よ、その華光如来は、十二中劫の経過の後、堅固さで満たされたもの、堅満という名前の偉大なる人である菩薩に対して、次のようにこの上ない正しく完全な覚りに到るであろうという予言をなしてから、完全なる滅度に入るであろう。

『比丘たちよ、この堅満菩薩は、私に続いてこの上ない正しく完全な覚りを得るであろう。そして紅蓮華の上を牡牛のように遊歩するもの、華足安行という名前の正しく完全に覚られた如来で、尊敬されるべき人で、学識と行ないを完成した人で、人格を完成した人で、世間をよく知る人で、人間として最高の人で、調練されるべき人の御者で、神々と人間の教師で、目覚めた人で、世に尊敬されるべき人として、世間に出現するであろう』と。

舎利弗よ、その如来のブッダの国土もまた、まさに同様であるだろう。

さらにまた、舎利弗よ、その華光如来が完全なる滅度に入った後で、その如来の正しい教え、正法は三十二中劫の間、存続するであろう。それから、その如来の正しい教えが失われて、その如来の正しい教えに似た教え、像法が三十二中劫の間、存続するであろう」

すると、それらの比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四衆たちや、神々、龍、ヤクシャ、ガンダルヴァ、アスラ、キンナラ、マホーラガ、人間、人間以外のものたちは、この上ない正しく完全な覚りに到るという、尊者舎利弗へこの予言を世尊の間近で面と向かって聞いて、満足し、高揚し、心が満たされ、狂喜し、喜悦と歓喜を生じ、それぞれ自分で衣で世尊を覆った。

また、神々の帝王であるシャクラ神や、サハー世界の主であるブラフマー神、他の、幾百、千、コーティもの神々の子たちが、天上の衣で世襲を覆った。

さらに天上のマーンダーラヴァと、大マーンダーラヴァの花を世尊にふりかけた。また、天上の衣を上空において旋回させた。

また、幾百、千もの天上の楽器や、太鼓を上空において打ち鳴らし、大いなる花の雨を降らして、次のように言葉を告げた。

「以前、世尊はヴァーラーナシーのリシバタナにある鹿野苑において、この真理の車輪を転じられましたが、今、世尊は再びこの上ない第二の真理の車輪を転じられました」と。

そこで、尊者舎利弗は、世尊に次のように申し上げた。

「世尊よ、私は世尊の間近で面と向かって、この上ない正しく完全な覚りに到るであろうという私へのこの予言を聞いて、疑いがなくなり、疑惑が消滅しました。また世尊よ、世尊はかつて、これらの自在を得た千二百人を、まだ学ぶべきことのある位に立たせられ、次のように教え、次のように導かれました。

『比丘たちよ、私の説く心理の教え、法と、出家者の守るべき規則、律は、次のことを究極とする。すなわち、生、老、病、死の憂いを超越して、安らぎ、涅槃に達することである』と。

また世尊よ、まだ学ぶべきことのある有学と、もはや学ぶべきことのない無学からなる世尊のすべての弟子たちの中には、自己にとらわれた見解や、あらゆるものは存在するという見解、あらゆるものは存在しないという見解など、すべての誤った見解を離れていて、『実に我々は、既に安らぎの境地に立っている』と自分のことを自認しているこれらの二千人の比丘たちがいます。それらの比丘たちは、世尊の間近でかつて聞いたこともないこのような法を聞いて、疑惑に陥っています。

世尊よ、これらの比丘たちの疑惑を取り除くために、これらの四衆たちが、これらの比丘たちの疑惑を取り除くためにこれらの四衆たちが、疑いもなく、困惑もなくなるように、その本当のことをお話しください」

舎利弗からこのように言われて、世尊は、尊者舎利弗に次のようにおっしゃられた。

「舎利弗よ、正しく完全に覚った尊敬されるべき如来は、種々の信順の志を持ち、種々の素質と考えを持った衆生の意向を理解して、種々の教化方法を遂行することによる教説、すなわち多種多様な因縁、原因、例証、根拠、語源的説明などの巧みなる方便によって、法を説くのだと、そのように私はかつて、あなたに言明したではないか。

如来はまさにこの上ない正しく完全な覚りについてあらゆる法を教授することによって、まさに菩薩のための乗り物へと教化するのである。

ところで実に、舎利弗よ、まさにこの意味を明示するために、私はあなたにさらに誓喩をなそう。

それはどのような理由によってか。

この世界において、随一の学識ある人たちは、語られたことの意味を誓喩によって了解するからである。

舎利弗よ、例えば村、あるいは町、あるいは城市、あるいは地方、あるいは地方のある地域、あるいは王国、あるいは王城のどこかにある所に今、衰弱した老人で、老齢に達した年長者であるが、裕福で大きな財産を持ち、大いに享楽した暮らしを送っている一人の資産家がいるとしよう。

また、その資産家の大きな邸宅は、高くそびえて、また広く、建てられて長年経過し老朽化しているが、二百、あるいは三百、あるいは四百、あるいは五百もの生命あるものたちの住むところであって、その邸宅にはただ一つの門ががある。その邸宅は、草で覆われていて、最上層が落下し、柱の根元は腐って、壁や障壁、漆喰は崩壊している。

そして、その邸宅がまさに突然、あらゆる側面において大きな火の魂によって燃え上がったとしよう。その資産家たには、五人、あるいは十人、あるいは二十人もの多くの子供たちがいる。

そして、その資産家はその邸宅から脱出した。

舎利弗よ、そこで、その資産家はその自分の邸宅が、大きな火の塊によってあらゆる方向から燃え上がっているのを見て、恐れ、おののき、恐怖に心を乱された。そして、次のように考えた。

『私は、この大きな火の塊によって苦しめられず、焼かれないで、この燃え上がる家から、門を通って、このように速やかに、うまく脱出することも、逃げることもできる。けれども、幼い子供たちであるこれらの私の息子たちは、まさにこの燃え上がっている邸宅の中で、それぞれの玩具によって遊び、喜び、自ら楽しんでいる。

また、この家が燃え上がっているのを知らないし、気付いてもいないし、理解してもいなければ、考えてもいないし、心の動揺に陥ってもいない。子供たちは、この大きな火の塊によって熟せられつつも、また大きな苦しもの集まりと遭遇していても、全く同じで、苦しみのことを考えることもない。それらの子供たちは、脱出しようという考えさえも起こさない』と。

また舎利弗よ、その資産家は、力があり腕力があるとしよう。その資産家は次のように考えた。

『私は、力があり、また腕力がある。そういうわけで、今、私はこれらのすべての子供たちを一つに寄せあ集めて、腰に抱えて、この家から脱出させるとしよう』と。

さらにその資産家は次のように考えた。

『実にこの邸宅は、ただ一つの入口があるだけで、しかも戸が閉まっている。子供たちは移り気であちこち動き回っている。だから、子供たちが実にさまようことがないように。それらの子供たちは、この大きな火の塊によって不幸な災厄に陥るであろう。そういうわけで、私は今、これらの子供たちを励まそう』と。

その資産家は、以上のように考えて、それらの子供たちに語りかけた。

『君たちよ、こちらへ来なさい。子供たちよ、逃げ出しなさい。この家は、大きな火の塊によって燃え上がっている。君たちのすべてが、まさにここで、この大きな火の塊によって焼かれたり、不幸な災厄に遭わないように』

ところが、それらの子供たちは、このように子供たちの安寧を願っているその資産家の言葉を聞いても、理解せず、身震いすることもなく、驚くことも、怖がることも、恐怖に陥ることも、考えることも、逃げ出すこともなく、この家が燃えていることが、そもそもどういうことなのか知ることもなく、了解することもない。

その一方で、あちこちを走り回ったり、駆けまわったりしては、操り返しその父を仰ぎ見ているだけである。

それはどんな理由によってか。

もちろん、それは幼児性の本性によるものであるからだ。

そこで、その資産家は、次のように考えるとしよう。

『その邸宅は燃え上がり、大きな火の塊によって燃え盛っている。もちろん私もこれらの子供たちも、まさに今、この大きな火の塊によって不幸な災厄に遭うことがないように。

そういうわけで、私は今、巧みなる方便によって、これらの子供たちをこの家から脱出させることにしよう』と。

その資産家は、それらの子供たちの意向を知っていて、好みを了解しているとしよう。また、それらの子供たちの欲するものには、多くの種類の玩具がある。それらの玩具は、多種多様で、愉快なもので、望まれ、願われていて、好まれ、心を魅了するものだが、得難いものである。そこで、その資産家は、それらの子供たちの意向を知りつつ、子供たちに次のように言った。

『子供たちよ、ここに君たちにあげる玩具がある。

それをもらわないと、君たちは後悔するだろう。それらの玩具は、愉快で珍しく、びっくりするものであり、色とりどりで多くの種類がある。すなわち、牛の車、羊の車、鹿の車の玩具である。君たちが望み、願い、愛し、君たちの心をとりこにするもので、それらのすべてを私は、君たちが遊べるように邸宅の門の外に置いている。

君たちは、こちらへ来なさい。この邸宅から逃げ出しなさい。そうすれば、褒美をもらうことや、玩具についての関心を抱いている君たちのそれぞれに、私はその玩具の車を与えよう。君たちは、急いでこちらへ来なさい。それらの玩具をもらうために逃げ出してきなさい』

その時、望み通りで、想像し願いを求めて来た通りの、愛らしくて心をとりこにする玩具の名前を聞いて、それらの子供たちは、それらの愉快な玩具をもらうために、実に速やかに走り出した。

勇気を得て、力強い速さで、互いに他人のことを見向きもせずに『誰が最初か』『誰がそれより先か』と言って、互いに体を押し合いながら、燃え上がるその家から、実に速やかに飛び出してきた。するとその資産家は、それらの子供たちが無事で安穏に開放されたのを見て、安全になったと知ると町の十字路の露地に坐った。

こうして、その資産家は喜悦と歓喜を生じ、不安も障害もなくなって、心配しなくてよくなったとしよう。

そこで、それらの子供たちは、その父のいる所に近づいて、次のように言った。

『お父さん、僕たちにそのいろいろ愉快なおもちゃをください。すなわち、牛の車、羊の車、鹿の車のおもちゃを』

そこで、舎利弗よ、その資産家は、それらの自分の息子たちに七宝で造られ、欄楯がめぐらされ、鈴のついた網の垂れ下がった、高くて、広く、素晴らしい希有なる宝石で飾られ、宝石の網でつくられて華麗であり、華環で飾られ、綿布と毛布が敷かれ、天幕とヴェールで覆われ、両側に赤いクッションを備え、白くて純白の、極めて速い牡牛がつながれ、多くの侍者たちに従われ、旗を立てた、風の速さを持つ牛の車だけを与えるとしよう。

その資産家は、風の力と速さを持つ一様で同一の種類の牛の車だけを、一人ひとりの子供に与えた。

それはどんな理由によってか。

舎利弗よ、まさにそのように、その人は裕福であり、大きな財産を持ち、多くの倉庫や蔵、家を持っているからでである。

その資産家は、次のように考えるであろう。

『私は、これらの子供たちに、他の乗り物を与えることはやめよう。

それはどんな理由によってか。

実にこれらの子供たちは、すべての私の息子たちであり、私にとってすべてが可愛らしく、愛おしいものであるからだ。

また、私にはこのように大いなる乗り物、大乗がいくらでもある。

しかも、私はこれらの子供たちをすべて不平等ではなく、平等に考えるべきである。

また、私は多くの倉庫や蔵、家を持っていて、私は、あらゆる衆生にもまたこのように大いなる乗り物を与えるであろう。まして自分の息子たちのためにはなおさらのことである』と。

そして、その時、それらの子供たちは、それらの大いなる乗り物に乗って、不思議で驚くべき思いにとらわれるであろう。

舎利弗よ、あなたはそれをどう考えるか。

それらの子供たちに、前には三つの乗り物を示しておきながら、後にはそれらの子供たちのすべてに大いなる乗り物だけを与え、勝れた乗り物だけを与えたとすれば、その人には、まさに虚言があることにならないだろうか」

舎利弗が言った。

「世尊よ、実にそのようなことはありません。人格を完成された人よ、実にそのようなことはありません。

世尊よ、その資産家は、巧みなる方便によって、それらの子供たちをその燃え上がる家から脱出させ、生命を救いました。それらの子供たちを守ったということ、まさにこの理由によって、その人は虚言者ではないでありましょう。

それは、どんな理由によってでしょうか。

世尊よ、自分の身体が無事であったことでこそ、すべてのおもちゃが得られたからであります。

また、世尊よ、たとえその資産家が、それらの子供たちに一つの車も与えなかったとしても、世尊よ、その人は確かに虚言者ではないでありましょう。

それは、まさに同様に、この人はその直前に、『私は巧みなる方便によってこれらの子供たちを、その大きな苦しみの集まりから解放させよう』と、考えていたからです。

世尊よ、このことからしても、その資産家には虚言はないでありましょう。ましてや、多くの倉庫や蔵、家があることを考えて、まさに息子たちに対する慈しみを抱き、称賛することによって、その人は一様で同一の乗り物、すなわち大いなる乗り物を与えたのであって、世尊よ、その人に虚言はありません」

舎利弗からこのように言われて、世尊は、尊者舎利弗に次のようにおっしゃられた。

「舎利弗よ、素晴らしいことである。素晴らしいことである。舎利弗よ、これはその通りである。これは、あなたが言う通りである。まさにこのように、舎利弗よ、正しく完全に覚った尊敬されるべき如来は、すべての恐怖が消え去っており、あらゆる苦難や、当惑、心配、苦悩、憂い、無知による暗黒、迷妄による暗黒というヴェールの覆いから、あらゆる点において、完全に開放されているのである。

如来は、知と十種の力、十力、説法における四つの畏れなきこと、四無畏、ブッダに具わる十八の特別の性質、十八不共仏法を具え、神通力によって大いに力があり、世間の人々の父であり、卓越した巧みなる方便と知の最高の完成に至っていて、大いなる慈悲を持ち、倦むことのない心を持ち、衆生の幸せを求め、憐れみ深いのである。

その如来は、生まれること、老いること、病になること、死ぬこと、憂い、悲しみ、苦しみ、悩み、悲哀によって無知という暗黒や、迷妄という暗黒のヴェールの覆いの中に留まっている衆生を貧愛、憎悪、迷妄の三毒から解放し、この上ない正しく完全な覚りへと教化するために、三界に生まれてくるのである。その三界は、大きな苦しみと悩みという日の集まりによって、屋根と覆いが燃え上がっている老朽化した邸宅のようなものである。

…その如来は、三界に出現するや否や、衆生が、生まれること、老いること、病になること、死ぬこと、憂い、悲しみ、苦しみ、悩み、悲哀によって焼かれ、煮られ、熱せられ、苦痛を与えられているのを見る。それらの衆生は、享楽のゆえに愛欲を原因として、種々の苦しみを受けているのである。

現世に、俗世間における名声、利益を貪ることにより、またそれらを得ることによって、来世には、地獄や、畜生としての在り方や、ヤマの世界において種々の苦しみを受けるであろう。

神々や人間として生まれても貧困であり、嫌な人との人間関係を持ち、愛しい人と離ればなれになるという諸々の苦しみを受けるのである。

また、まさにその苦しみの集まりの中にいながら、遊び、喜び、自ら楽しんでいる。

恐れることもなく、怖がることもなく、恐怖に陥ることもなく、気付くこともなく、理解することもなく、しり込みすることもなく、そこから脱け出すことを求めようともしない。しかも、まさにその燃え上がった家のような三界において満足し、ただあちらこちらに走りまわっている。だから、その大きな苦しみの集まりによって苦しめられても、苦しみの思いや、意識を自覚することもないのだ。

そこで舎利弗よ、如来は次のようにご覧になるのだ。

「私は、確かにこれらの衆生の父である。実に私は、これらの衆生をこのような大きな苦しみの集まりから解放させなければならない。また私は、これらの衆生が真実に遊び、自ら楽しみ、そして遊戯することができるように、これらの衆生に量り知ることもできない、考えることもできないブッダの智慧の喜びを与えなければならない」と。

その時、舎利弗よ、その資産家は、腕力が強いのに、腕力を差し置いて、巧みなる方便によってそれらの子供たちを、その燃え上がった家から脱出させ、脱出させた後に、それらの子供たちに立派な大いなる乗り物を与えた。まさにそのように、舎利弗よ、正しく完全に覚った尊敬されるべき如来もまた、如来の智慧の力と、四つの畏れなきことを具えているのに、如来の智慧の力と四つの畏れなきことを具えているのに、如来の智慧によって、屋根と覆いが燃え上がっている老朽化した邸宅のようなこの三界から衆生を脱出させるために、三つの乗り物、すなわち声聞のための乗り物、独覚果に到る乗り物、菩薩のための乗り物を示されるのである。

そして、三つの乗り物によって衆生の関心をひきつけ、これらの衆生に次のように語るのである。

「あなたたちはこの燃え上がった家のような三界において、低劣な、色、声、香、味、触、に熱中しているあなたたちは、五つの世俗的欲望の対象にともなっている渇愛によって焼かれ、熱せられ、苦痛を与えられているのだ。あなたたちは、この三界から逃げ出しなさい。あなたたちは、三つの乗り物、すなわち声聞のための乗り物、独覚果に到る乗り物、菩薩のための乗り物を見いだすだろう。私は、この点においてあなたたちにこれらの三つの乗り物を与えるであろう。あなたたちは、三界から脱出するために専念するがよい」と。

また、私は、次のようにしてこれらの衆生の関心をひきつけるのである。

「ああ、衆生よ。これらの乗り物は、聖なるものであり、聖者たちによって称賛されており、大いなる喜びを具えている。あなたたちは、これらの乗り物によって愉快に遊び、喜び、自ら楽しむであろう。五つの働き、五根と、五つの能力、五力、七つの覚りへの要件、七覚支、禅定、解脱、三昧、等至によって、あなたたちは大きな喜びを得るであろう。また、あなたたちは、大いなる安楽と喜びを具えたものとなるであろう」と。

舎利弗よ、その場合、賢い人の部類に属している衆生は、世間の人々の父である如来を信ずるのだ。賢い部類の人は信じてから、如来の教えに専念し、努力に傾倒する。その場合、他者の教えを聞いてそれに従うことを求めている衆生の声聞たちは、自分自身の完全なる安らぎを得るために、四つの聖なる真理、四聖諦を覚知するための如来の教えに専念するのである。

それらの衆生は、声聞のための乗り物を求めて三界から脱出したと言われるのだ。それはあたかも、ある子供たちが、鹿の車を求めてその燃え上がった家から脱出したようなものである。

他の衆生は、師匠なしで得た智慧や、自己抑制と禅定による心の静止を求めつつ、自分自身の完全な安らぎのために、因縁を覚知するための如来の教えに専念するのである。

それらの衆生は、独覚果に到る乗り物を求めて三界から脱出したと言われるのだ。それはあたかも、ある子供たちが、羊の車を求めて三界から脱出したと言われるのだ。それはあたかも、あるいは子供たちが、羊の車を求めてその燃え上がった家から脱出したようなものである。

さらに、一切知者の智慧、一切種智や、ブッダの智慧、独立自存するものの智慧、自然智、師匠なしで得る智慧を求めている他の衆生は、多くの人々の安寧と幸福のため、世間の人々に対する憐れみのため、神々と人間といった衆生の完全なる安らぎのために、如来の智慧の力と四つの畏れなきことを覚知するために如来の教えに専念するのである。

それらの衆生は、大いなる乗り物を求めて三界から脱出したと言われるのだ。その理由によって、偉大な人である菩薩と言われるのだ。その理由によって、偉大な人である菩薩と言われるのだ。それはあたかも、子供たちが、牛の車を求めてその燃え上がった家から脱出したようなものである。

舎利弗よ、その資産家は、それらの子供たちがその燃え上がる家から脱出したのを見て、安穏で幸福に解放され安全になったことを知り、自分自身が多大な財産を所有していることを知っているので、それらの子供たちにただ一つの勝れた乗り物を与えるであろう。

まさにそのように、舎利弗よ、正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来もまた、その時、幾コーティもの多くの衆生が三界から解放され、苦しみや、恐怖、恐るべき苦難から自由になり、如来の教えにおける門を通って脱出し、すべての恐怖と苦難という荒野から解放され、こころが寂静となった安らぎに達したのをご覧になるのだ。

舎利弗よ、その時、正しく完全に覚った尊敬されるべき如来は、大いなる智慧の力と、説法における四つの畏れなきことの蔵が豊富であることを知って、これらの衆生のすべてが実に自分の息子たちであることを了解して、ただブッダに到る乗り物によってのみ、それらの衆生を完全なる安らぎに到らせるのである。

しかも、如来は衆生の個人個人にそれぞれの意向の違いに応じて相違なる完全なる安らぎを説くようなことはないのだ。

如来は、如来の覚りと全く同じ完全なる安らぎ、卓越した完全な安らぎによって、それらのすべての衆生を完全なる安らぎに到らせるのである。

さらにまた、舎利弗よ、三界から解放されたそれらの衆生に如来は禅定や、解脱、三昧、等至、聖なる最高の安楽、愉快なおもちゃを与えられるのだ。これらはすべて一様なものである。

舎利弗よ、三つの乗り物を示した後で、それらのすべての子供たちに最高の乗り物だけを与えたその資産家には虚言がない。まさにそのように舎利弗よ、前に巧みなる方便によって三つの乗り物を示して、その後に、衆生を大いなる乗り物のみによって完全なる安らぎに至らせる如来もまた、虚言者ではないのである。

それはどんな理由によってか。

舎利弗よ、実に如来は、多くの智慧の力と、脱法における四つの畏れなきことという倉庫や蔵、家を持っていて、すべての衆生のために一切知者の智慧を具えた法を説くことができるからである。

これによって、舎利弗よ、次のように知るべきである。

「如来は、巧みなる方便の智慧を遂行することによって、ただ一つの大いなる乗り物のみを説くのである」と。

以上が、聖なる、百蓮華のように最も勝れた正しい教え、という法門の中の「誓喩の章」という名前の第三章である。

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