◎開経偈かいきょうげ
無上甚深微妙の法は。百千萬劫にも遭い奉ること難し 我今見聞し 受持することを
得たり 願わくは如来の第一義を解せん 至極の大乗思議すべからず 見聞触知皆
菩提に近づく 能詮は報身 所詮は法身 色相の文字は 即ち是れ応身なり
無量の功徳 皆この経に集まれり 是故に自在に冥に薫じ密に益す 有智無智罪を
滅し 善を生ず 若しは信 若しは謗 共に仏道を成ぜん 三世の諸仏 甚深の妙典
なり 生生世世 値遇し頂戴せん
(現代語訳)
この上なく深い妙のみ法である法華経には、はかり知れないほどの長い間生きていても、出会うことは難しいのです。
しかし、私は今、お釈迦様が本当の心をあかされた真実の教えである法華経に出会い、お経の文字を見聞きし、受けたもつことができました。
どうか、お釈迦様の説かれた第一のすぐれた教えを信じ習いきわめることができますよう、心から誓願いたします。
最高の大いなる法華経の教えを、私の小さな考えによって理解しようとするのではく、法華経を見聞きし、お経の文字にすなおにふれて知ることが、そのまま、みなともにみ仏の悟りに近づく、と信じて法華経を読んでまいります。
法華経の教えを説かれているのは、限りない命をとこしえに輝かし、いっさいを救い導こうとされているお釈迦様です。
法華経に説かれている教えは、すべての生きとし生けるものを仏にしようとされているお釈迦様のお心です。
法華経にしるされているお経のひとつひとつの文字は、そのままお釈迦様のお姿そのものです。
お釈迦様が長い間積まれた、はかり知れない功徳は、みな、このお経に集まっております。
このゆえに、法華経を信じれば、おのずから香りに染まるように、法華経の功徳は私の体にしみついて、知らず知らずのうちに、まことの利益をもたらします。
智慧のある者も、智慧のない者も、これまでおかしてきたすべての罪をなくし、善を生ずることができます。
法華経を信ずる者も、そしる者も、この法華経の広大な功徳につつまれて、みなともに仏になる道を成し遂げることができます。
過去・現在・未来の世の、もろもろのみ仏は、この法華経を悟って仏になられました。そのはかりしれない深い悟りの心が、妙なる法華経に示されております。
いくたび生まれ変わっても、いつの世に生きようとも、このありがたい法華経にお会いし、信仰することができますように願います。
◎方便品ほうべんぽん
妙法蓮華経 方便品 第二
爾時世尊 従三味 安詳而起 告舎利弗 諸仏智慧 甚深無量 其智慧問
難解難入 一切声聞 辟支仏 所不能知 所以者何 仏曽親近 百千万億
無数諸仏 尽行諸仏 無量道法 勇猛精進 名称普聞 成就甚深
未曽有法 随宜所説 意趣難解 舎利弗 吾従成仏已来 種種因縁
種種譬諭 広演言教 無数方便 引導衆生 令離諸著 所以者何
如来方便 知見波羅蜜 皆已具足 舎利弗 如来知見 広大深遠 無量無礙 力
無所畏 禅定 解脱 三昧 深入無際 成就一切 未曽有法 舎利弗
如来能種種分別 巧説諸法 言辞柔軟 悦可衆心 舎利弗 取要言之
無量無辺 未曽有法 仏悉成就 止 舎利弗 不須復説 所以者何
仏所成就 第一希有 難解之法 唯物与仏 乃能究尽 諸法実相
『所謂諸法 如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因
如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等』
『 』を3回くりかえす
(現代語訳)
そのとき釈尊は、めい想を終えられて静かに目をお開きになられると、舎利弗に
向かって言われました。
「仏の智慧は非常に奥深く、はかりしれないものです。その根本真理は、あまりに
深遠で難しいため、修行中の者であっても理解できるものではありません。
なぜならば、仏というものは、かつて無数の仏に親しく教えを受け、その数々の
教えをあらゆる努力をつくして実践し、内外から起こる障害や困難を、勇猛信をもって
残らず克服し、ただひたすら目的のために突き進んでいったのち、ついにすぐれた智慧
を得て、すべての人々に仰がれるような身となったのです。このようなはかりしれない
努力の結果、いままで世に知られたことのない深遠なる真理・法を悟られたのが仏なの
です。仏は、その真理・法を、人々の機根に応じた適切な説き方をされるのですが、
人々は、その奥にある仏の真意がどこにあるのか気づけないでいるのです。
舎利弗よ。私は仏の悟りを得てからいままで、いろいろと過去の実例や譬えを用いて、
多くの人々に教えを説いてきました。すなわち、それぞれの人と場合に応じた適切な
方法で人々を導き、自己中心の考え方からさまざまなものごとに執着し、その執着の
ために苦しんでいる人には、その苦の原因を悟らせて苦しみを解いてあげてきたのです
舎利弗よ。如来の智慧というものは、非常に広大であって、この宇宙間のあらゆるもの
ごとを知り尽くしています。また、非常に深遠なものであって、遠いむかしのことから
永遠の未来ののことまで見とおしているのです。
すなわち、すべての人に無量の福を生じさせる徳(無量)と、教えを説く完全な自由
自在の力(無碍)と、この世のあらゆるものごとを知る力(力)と、何ものをも恐れて
はばかることなく法を説く根本的な勇気(無所畏)と、心の散乱を防いで静かに真理に
おもいをこらす境地(禅定)と、ものごとに対するあらゆる執着から脱け出て真の安心
を得る心の持ち方(解脱)と、精神を一時に集中してその一念を正しく保つ精神統一の
法(三昧)のすべてを具え、はてしなく奥深い境地に入り、いままで誰も知りえなかっ
た真理・法を見きわめ、いままで人の達したことのない方を成就したのです。
舎利弗よ。私は相手と場合に応じて、いろいろと説き方を変えて、たくみに多くの教え
を説き、しかも常に柔らかで飲み込みやすい言葉で説いて、人々の心に教えを聞くこと
の喜びをわき起こさせてきました。舎利弗よ。これまでに述べたことを総じて言えば、
普通の人間では想像もできない、最高の法を私はすっかり悟ったのです。
やめましょう。舎利弗よ。説明してみてもわかるはずがありません。なぜならば仏が
極めた真理・法は、この世における最高の真理・法であり、仏と仏の間だけで理解でき
るものだからです。もろもろの仏は、この世のすべてのものごと(現象=諸法)のあり
のままのすがた(実相)を見きわめ尽くされ、私もまた見きわめたのです。
すなわち、すべての現象には持ち前の相(すがた)があり、相にふさわしい(性)性質
や体(本体)があります。体は力(潜在力)を持ち常に外に向けいろいろな作(作用)
を起こしています。
つまり、この世のすべての物には必ず相・性・体・力・作があり、それらは互いに因
(原因)となり縁(機会・条件)となって、関係し合いながら変化し続け、千差万別
の果(結果)・報(影響)を作り出しているのです。こうした緒現象は複雑にからみあ
っていて、人間の知恵では原因と結果のつながりが見えにくいことも多いのですが
そのじつ、すべては初め(本)の相から終わり(末)の報まで、ふさわしくつながり
あって展開していく(苦境等)のです。これが諸法の実相であり、本仏(真理)の
働きなのです」
◎自我偈じがげ
妙法蓮華経 如来寿量品 第十六
自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧衹 常説法教化 無数億衆生
令入於仏道 爾来無量劫 為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
我常住於此 以諸神通力 今顛倒衆生 雖近而不見 衆見我滅度 広供養舎利
咸皆懐恋慕 而生渇仰心 衆生既信伏 質直意柔軟 一心良見仏 不自惜身命
時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅 以方便力故 現有滅不滅
余国有衆生 恭敬信楽者 我復於彼中 為説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度
我見諸衆生 没在於苦海 故不為現身 令其生渇仰 因其心恋慕 乃出為説法
神通力如是 於阿僧衹却 常在霊鷲山 及余諸住処 衆生見却尽 大火所焼時
我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳 宝樹多華衆 衆生所遊楽
諸天撃天鼓 常作衆伎楽 雨曼荼羅華 散仏及大衆 我浄土不毀 而衆見焼尽
憂怖諸苦悩 如是悉充満 是諸罪衆生 以悪業因縁 過阿僧衹刧 不聞三宝名
諸有衆功徳 柔和質直者 則皆見我身 在此而説法 或時為此衆 説仏寿無量
久乃見仏者 為説仏難値 我智力如是 慧光照無量 寿命無数却 久修業所得
汝等有智者 勿於此生疑 当断令氷尽 仏語実不虚 如医善方便 為治狂子故
実在而言死 無能説虚妄 我亦為世父 救諸苦患者 為凡夫顛倒 実在而言滅
以常見我故 而生憍恣心 放逸著五欲 堕於悪道中 我常知衆生 行道不行道
随応所可度 為説種種法 毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身
(現代語訳)
私が仏になってから経過した期間は、百千万憶という長い時間です。その間に教えを説
いて数限りない人々を教化し、仏の道に導いて来ました。それから長い時間が経過しま
した。人々を救うために、一度は(釈迦として)死んだ姿をとりましたが、実際は死ん
だのではなく、常にこの世界にいて法を説いているのです。私は常にこの世に現われて
いますが、神通力によって迷っている人々には、姿を見せないようにしているのです。
人々は私の死を見て、私の遺骨を供養し、私をなつかしく思い、慕い敬う心を起こしま
した。人々が信仰心を起こし、心が素直になり、仏に会いたいと願い、そのためにも命
も惜しまないように、その時私は、弟子たちと霊鷲山に姿を現します。そして人々に語
ります。
「私は常にこの世界にあり、不滅ですが、人々を導く手段として死んでみせたのです」
と。他の国土の人々も、私を信じ敬うならば、その人々のためにも、「私は最高の教え
を説くでしょう」。あなたたちはこれを信じず、私が死んだと思っています。私が見る
ところ、人々は苦しみの中にあえいでいます。だから姿を現さず、すがる心を起こさせ
たのですが、今私を仰ぐ心が起こったので、こうして姿を現し教えを説くのです。
私の神通力はこのようにすばらしく、永遠の昔から、常にここ霊鷲山や、またこの世界
の場所にいます。人々がこの世が終わりを迎え、種々の災害が起こると思っているとき
でも、私の国土は安らかで天人や人々でいっぱいです。その世界の花園や宮殿は、種々
な宝石で飾られ、木々には多くの花や実がなり、人々はそれらを楽しんでいます。
天人たちは天の楽器をならし、常に多くの音楽を演奏し、マンダラの花が、仏や人々の
上に降り注いでいます。私の国土は不滅であるのに、人々はこの国土の終わりが迫って
あらゆる苦しみや悩みに溢れていると錯覚しています。
罪を重ねてきた人々は、悪の行為の結果、どんな長い時が過ぎても、仏の教えを聞くこ
とができませんが、善い行為をなし、心が素直な人々は、皆私の姿を見られますし、私
の教えを聞くこともできます。こうした人々に、私の姿を見るのは困難だと説きます。
私の智恵の働きがこれほど優れ、その光はどこまでも照らし、寿命が永遠なのは、過去
の長い間の修行の結果なのです。もしあなたたちに智恵があれば、私のいったことを疑
ってはいけません。疑う心を完全になくしてください。私の言葉は常に真実です。例え
ば医者が、狂った子供たちを技法を以て救うために、生きているのに死んだと言ったの
が嘘でなかったように、私も人々の父として、彼らの苦しみを救おうとしているのです
人々は迷っているので、私が死んだと錯覚しています。私が常に姿を現していますと、
なまけ心を起こし、欲望に捕らわれて、悪世界に堕ちることになります。そこで私は
いつも人々が、正しい道を歩んでいるかを見極め、どうすれば救えるかを考えながら、
ふさわしい教えを説いています。そして常に、「どうすれば人々を最高の教えに導き
一刻も早く仏に成るだろうか」と常に念じているのです。
●運想うんぞう
唱え奉る妙法は 是れ三世諸佛 所證の境界 上行薩埵 霊山別付の眞浄大法成。
一たびも南無妙法蓮華経と唱え奉れば 即ち事の一念三千 正観成就し 常寂光
土現前し 無作三身の覚體顕れ 我等行者 一切衆生と 同く法性の土に居して
自受法楽せん 此の法音を運らして 法界に充満し 三宝に供養し 普く衆生に
施し 大乗一實の境界に入らしめ 佛土を厳浄し衆生利益せん
(現代語訳)
お唱えする南無妙法蓮華経は、過去・現在・未来のすべての仏さまが到達した悟りの境
地です。それを法華経の中で、釈尊が上行菩薩に末代へと伝えるように委ねられた
まことに清らかで大いなる仏法であります。
この南無妙法蓮華経を一度でも唱えると、釈尊の教えを自分の心に受け取り、体得する
事ができます。すると目の前に、悟りを確かめることができ、久遠という永遠の仏さま
の本体が明らかになります。この教えを一心に行うものは仏法の真理に包まれて、自然
と楽しみを得ることができます。お題目を想い運らして三宝に供養を捧げます。その結
果、仏さまと同じ境地にたどり着いて、私達が住んでいる世界を仏の浄土と感じ、救い
をもたらしてくれるのです。
●宝塔偈ほうとうげ
此経難持 若暫持者 我即歓喜 諸仏亦然 如是之人 諸仏所歎 是則勇猛 是則精進
是名持戒 行頭陀者 則為疾得 無上仏道 能於来世 読持此経 是真仏子 住淳善地
仏滅度後 能解其義 是諸天人 世間之眼 於恐畏世 能須臾説 一切天人 皆応供養
(現代語訳)
この法華経を 信じ行うことは たいへんむずかしい もし少しのあいだでも
この法華経を信じ行うものがいたならば わたし釈迦牟尼仏はそのときたちまち
心から喜ぶであろう これはわたしだけでなく もろもろの仏たちも同じである
このように 法華経を信じ行う人を もろもろの仏たちは ほめたたえるのである
法華経を信じ行うことを ほんとうの勇気があるというのである
法華経を信じ行うことこそ 真の精進なのである
これを 仏の教えを信ずるものがもつべき戒めをたもち すべてを捨て去って
ひたすら仏の道を求め行っているものというのである 法華経を信じ行うならば
たちまち すみやかに この上なくすぐれた仏の道を体得できるのである
未来の世に生まれて よく 法華経の教えを 信じて理解するならば この人は
もろもろの天上界の人々や この世の中の人々を導く眼となるであろう
恐ろしい末の世において よく ほんの少しのあいだでも この法華経を説くならば
すべての天上界の人々は みな この人を供養するであろう
●四弘誓願しぐせいがん
衆生無辺誓願度 煩悩無数誓願断 法門無尽誓願知 仏道無上誓願成
(現代語訳)
たくさんの人が幸せになれるように勤める
尽きることのない煩悩をなくす
壮大なお釈迦様の教えをすべて学ぶ
最上の悟りを得て仏様と同じレベルに達する
まとめ
僕の祖母が、実際唱えていたお経です。朝と夜に唱えていました。暗記していたのが
すごいです。「あまり気持ちを入れて拝まないようにしている。気持ちを入れて真剣
に唱えると、霊が見えるようになるからいやだ」と言っていました。
ちなみに、祖母の兄弟姉妹には2人お坊さんでした。
僕は週末拝むようにしています。
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