何て書いてあるの?開運!南無妙法蓮華経!「妙法蓮華経 信解品 第四」(現代語訳)

南無妙法蓮華経

妙法蓮華経 信解品 第四(現代語訳)

その時、尊者スブーティと、尊者マハー・カーティヤーヤナ、尊者マハー・カサッパ、尊者マハー・マウドガリヤーヤナの四人の偉大なる声聞たちは、過去に聞いたことのないような法を、世尊のそばで面と向かって聞き、尊者シャーリープッタがこの上ない正しく完全な覚りに到るであろうという予言を聞いて、たいへん驚きそして喜んだ。そして、その四人は席から立ち上がって、世尊のおられるところに近づいた。そして、その時、四人のうちの一人が世尊に次のように申し上げた。

「 世尊よ、私たちは年をとった高齢の老人であり、この男性出家者の中でも長老とみなされています。年老いて老衰し、安らぎに達したのだと考えて、世尊よ、私たちは怠惰でありました。世尊が法を説いておられる時も、世尊が長い間座っておられる時も、私たちは長い間、座り、世尊のそばに仕えていたので手足や、身体の部分が痛み、関節など傷んでおります。それ故に世尊よ。世尊が法を説かれて『あらゆるものは実体がなく、自性がなく、欲望を離れている』ということが私たちには明白になりました。けれども、私たちは、これらのブッダの法に対しても、ブッダの国土の荘厳や、菩薩の自在な振る舞い、如来の自在な振る舞いに対しても、熱烈な願望を抱くことはありませんでした。それはどんな理由によってでしょうか。すなわち、世尊よ。私たちの世界であるこの三界から脱出して安らぎを得たと思っていましたし、年をとってもうろくしているからです。

世尊よ、その後、私たちもまたこの上ない正しく完全な覚りに向けて他の菩薩たちに教えたり、教授したりしていました。しかしながら、世尊よ、私たち自身は、一度さえもその正しく完全な覚りに対して熱烈に願望する心を生じることはありませんでした。

世尊よ、この私たちは、この上ない正しく完全な覚りに到るという予言が、声聞たちにも存在するということを、今、世尊のそばで聞いて、不思議で驚くべき思いにとらわれ、実に大きな収穫をえました。

世尊よ、今、まさに思いがけず、過去に聞いたこともないこのような如来の言葉を聞いて、実に大いなる宝物を得ました。

世尊よ、今、まさに思いかけず、過去に聞いたこともないこのような如来の言葉を聞いて、実に大いなる宝物を得ました。世尊よ、私たちは、実に無量の宝物を得ました。世尊よ、私たちは求めることもなく、このように大いなる宝物を得たのです。

世尊よ、私たちに明らかになりました。人格を完成された人よ、私たちは明らかになりました。

世尊よ、例えば誰かある男が父親のそばから立ち去ったとしましょう。立ち去ってから、その男は、他のある所に至りました。

その男は、二十年、三十年、四十年、あるいは五十年もの長い間、その国に住みました。

さて、世尊よ、その男が大人になりました。しかしながら、その男は貧しくて、食べ物や着るものを得るために生業を探し求め、四方八方をさまよいながら、他の国のあるところにたどり着きました。

一方、その男の父親も、どこかにある国にでかけたとしましょう。

その父親は、多くの財産、穀物、金貨、倉庫、収蔵庫、そして家を所有していて、多くの金、銀、宝石、真珠、琉璃、螺貝、碧玉、珊瑚、黄金、白銀を所有し、また多くの女召使いや、召使い、職人、雇い人を抱え、さらには多くの象馬、車、牡牛、羊を所有しています。

その父親は、数多くの侍者を従え、大きな国々の中で裕福な人となって、富の蓄積や利子を取っての金融業、また農業や、交易で繁盛していました。

さて、世尊よ、その貧しい男は、食べ物や着るものを探し求めるために、村や、町、城市、国、王国、王城をさまよいながら、次第にその貧しい男の父親が住んでいるその町にたどり着いたとしましょう。

世尊よ、貧しい男のその父親は、その町に住みながら、五十年もの間、行方不明のその息子のことを常に思い続けていました。

そして、その息子のことを思い続けながら、その父親ただ一人が、自分で自分のことを苦しんでいるだけで、その息子のことを決して誰にも語ることはありませんでした。

そして、次のように考えていました。

「私は、年老いた老人で、老衰している。私には多くの金貨、黄金、財宝、穀物、倉庫、収蔵庫、そして家が存在する。けれども、私には息子が誰もいない。ああ、実に悲しいことだ。私に死ぬようなことがなく、これらのすべてが享受されずに失われるようなことがないことを願いたい。

その人は、その息子のことを何度も繰り返して思い出します。

「ああ、もしも、私のその息子がこの財宝の山を享受するならば、私は確かに安心するであろう」

その時、世尊よ、その貧しい男は、食べ物と着るものを求めながら、その裕福な人の邸宅のあるところへ次第に近づいてきました。

その時、世尊よ、その貧しい男の父親は、自分の邸宅の門のところで数多くのバラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラの人たちの集まりに囲まれ、尊敬され、金と銀で飾られている足を乗せる台のついた卓越した獅子座に坐っていました。幾百、千、コーティもの金貨を取引し、毛の扇であおがれながら、日傘が広げられ、花が散り乱れ、宝石の花環が垂れ下がったところに、大いなる威厳を持って坐っています。

世尊よ、その貧しい男は、自分のその父親が、邸宅の門のところに、このように威厳をもって坐っていて、数多くの人たちの集団に囲まれ、資産家としての仕事をしているのを見ました。その貧しい男たちは、それを見て、さらに恐怖し、おののき、悩み、身の毛のよだち、身震いする思いを抱き、次のように考えました。

「思いがけないことに、俺はこの王様か、王様と同等の権威を持つ人に出くわしてしまった。ここは俺のする仕事は何もない。俺のようなものは立ち去ろう。貧民街なら俺のようなものの食べ物やら着るものが、苦労もせずに手に入るだろう。俺は、こんなところで長い間、躊躇なんかしていられない。もちろん、俺はここでとらえられて強制労働をさせられたり、そのほかのひどい目にあったりすることなどごめんこうむりたい」と。

すると世尊よ、その貧しい男は、自分が捕らえられたならば、苦しみが立て続けに起こるだろうと考えて、恐怖におののいて、急いで逃げ出し、逃走し、そこに留まることはないでありましょう。

その時、世尊よ、自分の邸宅の門のところで獅子座に坐っていたその裕福な人は、まさにその男をみるやいなや、それが自分の息子であることを了解しました。自分の息子を見て、満足し、心が高ぶり、狂気し、喜び、喜悦と歓喜を生じました。

そして、次のように考えました。

「たった今、この多くの金貨、黄金、財宝、穀物、倉庫、収蔵庫、そして家を享受するものが見つかった。実に不思議なことである。私は、これまでこの息子のことを何度も何度も思い出した。その息子が今、まさに自分からここにやって来た。しかも、私は年をとった高齢の老人である」と。

すると、世尊よ、息子を渇望して苦しんでいたその人は、その瞬間のそのまた瞬時のうちに、敏速な侍者たちを派遣しました。

「お前たち、行ってあの男をすぐに連れてきなさい」と。

すると、世尊よ、まさにそれらのすべての侍者たちは、速やかに走り去り、その貧しい男をつかまえました。その貧しい男は、恐れ、おののき、悩み、身の毛がよだち、身震いする思いを抱き、激しく悲嘆した声を発し、声高に叫び、うめき声を上げました。

そして、「俺は、お前たちに何も危害を加えてなんかいない」と訴えました。

しかしながら、それらの侍者たちは、うめき声を上げているその貧しい男を力ずくで引きずってきました。その貧しい男は、恐れ、おののき、悩み、身震いする思いを抱き、次のように考えました。

「俺はただ単に殺されることも、棒で打たれることも嫌だ。俺は死にたくない」と。

その貧しい男は、気絶して地面に倒れ、意識を失いました。その父は、この貧しい男のそばに来て、それらの侍者たちに次のように言うでありましょう。

「お前たちは、その男をそのように連れてきてはならない」と。

その父は、その貧しい男に冷たい水をかけたが、その後は、さらに話しかけることはありませんでした。

それは、どんな理由によってでしょうか。その資産家は、自分自身には威厳に満ちた力があるのに、その貧しい男には、劣ったものに信順の志を持つ性分が抜けきれないでいます。

それにもかかわらず、「これは私の息子である」とわかっているからであります。しかしながら世尊よ、その資産家は巧みなる方便によって、「これは私の息子である」と誰にも話すことはないでありましょう。

そこで、世尊よ、その資産家はある侍者に伝えました。

「さあ、侍者よ、お前はあの男の所へ行ってこう言いなさい。さあ男よ、お前は行きたいところへ行くがよい。お前は解放されたのだ」と。

資産家がこのように言うと、その侍者はその命令を承ってその貧しい男に近づきました。そして、その貧しい男にこう告げました。

「さあ男よ、お前は行きたいところへ行くがよい。お前は解放されたのだ」と。

すると、その貧しい男はこの言葉を聞いて、不思議で驚くべき思いになりました。その男は、そこから立ち上がって、貧民街のあるところへ食べ物や着るものを探し求めて近づきました。

そこで、その資産家は、その貧しい男を自分に近づけるために、巧みなる方便を用いるでありましょう。その資産家は、顔色が悪く、力の弱々しい二人の侍者を用いました。

「お前たちは、行きなさい。先ほどここにきていたあの男を、お前たちは自分の言葉で二倍の日給で雇って、私のこの邸宅で仕事をさせなさい。もしも、その男がどんな仕事をするのかと、尋ねたならば、お前たちはこの男に、俺たち二人と一緒に肥溜めを綺麗にするのだと、このように言いなさい」と。

すると、その二人の侍者たちは、その貧しい男を探し出して、その仕事を与えました。

さて、その二人の侍者と、その貧しい男は、その大金持ちの人から賃金をもらって、その邸宅において肥溜めを綺麗にしました。

そして、その大金持ちの人の家の近くにあるわらぶき小屋に三人は住みます。

その裕福な人は、円窓や風を通す穴から自分のその息子が肥溜めを綺麗にするのを見るでありましょう。見てからさらに、不思議な思いにとらわれました。

するとその資産家は自分の邸宅から下りてきて、花環や装身具をはずし、柔らかく清らかで勝れた衣服を脱ぎ、汚れた衣服を着て、右手にし尿を入れる容器を持ち、泥で自分の体を汚し、遠くから声をかけながら、その貧しい男のいるところへ近づきました。近づいてから、次のように言いました。

「お前たちは、し尿の容器に運びなさい。立ってはいけない。し尿を運びなさい」と。

このようにして、その息子に話しかけたり、談話したりして、その息子に言いました。

「さあ、侍者よ、お前はここだけで仕事をしなさい。もうよそに行かないでくれ。私は、お前に特別に報酬を与えよう。水瓶や、壺、皿、薪、塩の代金の支払いであれ、食べ物や着るもの、何があってもお前のためになすべきことは遠慮せずに私に要求するがよい。さあ、侍者よ、私には古着がある。もしもそれがお前のためになすべきで、お前が求めるならば、私はお前にそれを与えよう。

さあ侍者よ、何であれ、お前のために与えるべきこのような生活用品のすべてを私はお前に与えよう。

さあ、侍者よ、お前は安心しなさい。お前は、私を自分の父親のように考えるがよい。それはどんな理由によってか。

私は年をとっているが、お前は若い。しかもお前はこの肥溜めを綺麗にしながら私のために多くの仕事をしてくれた。

しかも、お前はここで仕事をしながら、人を欺くことや、曲がったこと、不正直なこと、自分を自慢すること、他人を軽蔑することを以前になしたこともなければ、現在にもなすことがないからだ。

他の侍者たちが仕事をしていても、彼らには不正なことが見出される。ところが、お前のすべての点において、邪悪な行為をなすのを私は一度もみたことがない。私にとってはお前は今後、私の実の息子のようなものなのだ」と。

そこで世尊よ、その資産家は、その貧しい男に息子と言う名前をつけるでありましょう。そして、その貧しい男は、その資産家のそばにあって父親という思いを抱きました。世尊よ、その資産家は息子に対する愛情に渇えていて、二十年間、このようにして、その息子に肥溜めを綺麗にさせるでありましょう。

こうして二十年がたって、その貧しい男は、その資産家の邸宅に気後れすることなく出入りするようになりました。

しかしながら、相変わらず全く同じそのわら葺き小屋に住んでいました。

ところが、世尊よ、その資産家に体力の限界が訪れたとしましょう。その資産家は、自分の死が近づいたのを自覚して、その貧しい男に次のように言いました。

「さあ、侍者よ、お前はこちらへ来なさい。私には、この多くの金貨、黄金、財宝、穀物、倉庫や、収蔵庫、そして家がある。私は、体力の衰弱が著しくなり、この財産を誰に与えるべきか、誰から受け取るべきか、何を残しておくべきかを模索している。お前は、この財産のすべてを完全に知っておくべきである。

それはどんな理由によってか。私は、まさにこのような財産の所有者で、お前もまた同じようなものであるからだ。だから、私のために、お前はこの中から何も消滅させるようなことがあってはならない」と。

さて、世尊よ、このようにしてその貧しい男は、その資産家のその多くの金貨、黄金、財宝、穀物、倉庫や、収蔵庫、そして家のことを完全に掌握しました。しかしながら、自分ではそれに対して無欲であって、その中から少しの大麦の代金分でさえも決して要求しませんでした。そして、自分は貧しいというその思いを抱きながら、相変わらずそのわら葺小屋に住んでいました。

ところで、世尊よ、その資産家は、その息子が有能な財産管理人に十分に成長していることを知ります。それとともに息子が、勝れた意思によって心が磨かれているが、以前の貧しい心が抜けきれず、恐怖心を抱いたり、大いに恥じ入ったり、自分を嫌悪したりしていることを知っていました。その資産家は、死期が近づくと、その貧しい男を連れてこさせて、多くの親戚の人々に引き合わせ、王様、あるいは王様と同等の権威を持つ人の前や、市民や村人たちの面前で次のように宣言しました。

「皆さん、お聞きなさい。これは、私の実の息子であり、まさに私が産ませたものである。何々という町からこの息子は遁走し、それから五十年が過ぎ去った。この息子は何の某という名前であり、私もまた何の某という名前である。そして、私はその町からまさにこの息子を捜し求めながらここにやって来たのだ。

これは私の息子であり、私はこの息子の父親である。私が享受しているすべてのもの、その一切を私はこの男に贈与する。しかも、私自身に属している一切の財産、そのすべてについて掌握しているのはこの息子である」と。

しかれば世尊よ、その貧しい侍者はその時、この言葉を聞いて不思議で驚くべき思いになりました。そして、次のように考えるでありましょう。

「私は、実にこの金貨、黄金、財宝、穀物、倉庫や、収蔵庫、さらには家までも、まさに思いがけずに獲得したのだ」と。

まさにこのように、世尊よ、私たちは如来の息子たちと類似したものであり、如来は、あたかもその資産家のように、私たちに「お前たちは、私の息子たちである」と、このようにおっしゃられます。

しかも、世尊よ、私たちは三つの苦しみによって苦しめられていました。三つによってとは何でありましょうか。

すなわち、好ましくないものによって受ける苦しみ(苦苦)、世の中が有為転変していることによって受ける苦しみ(行苦)、好ましいものが変化し壊れていくことによって受ける苦しみ(壊苦)の三つによって私たちは苦しめられていたのであります。しかも、私たちは地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天界という生存領域の循環、六道輪廻の繰り返しの中で、劣った教えに信順の志を持っておりました。

それ故に世尊は、私たちに肥溜めのような、より一層劣った多くの教えについて考察させられました。私たちは、それらの教えを考察することに専念しました。

努力し、精進しながら、世尊よ、その貧しい男が一日の賃金を求めて探し回ったように、私たちは涅槃のみを求めて探し回りました。そして世尊よ、私たちはその涅槃の獲得によって満足していました。如来のそばでその教えに専念して、努力し、精進したから、多くのものを獲得したのだと私たちは考えていました。

しかしながら如来は、私たちに劣ったものに対する信順の志があることをご存じでありました。だから、世尊は私たちを放置して、かかわることなく、私たちに、「如来が所有しているこの知の蔵、まさにこれはお前たちのものとなるであろう」とおっしゃることはありませんでした。ただ、世尊は、私たちのために巧みなる方便によって、この如来の知の蔵の管理人の立場に立たせられました。

しかしながら、世尊よ、私たちはその如来の知に対して無関心であって、次のように考えました。

「貧しい男が、肥溜めをきれいにして一日の賃金を得るのと同じように、私たちが如来のそばで涅槃を得るという事、これこそが私たちにとって非常にありがたいことである」と。は

世尊よ、その私たちは、偉大なひとである菩薩たちに如来の知見について勝れた説法をなし、如来の知を明かし、示し、説明いたしました。けれども、世尊よ、私たち自身は、その如来の知に対して無関心であり、慢心がありました。

それは、どんな理由によってでしょうか。如来は、巧みなる方便によって、私たちの信順の志をご存知でありたことしかしながら、私たちが世尊の真実の息子であると、世尊が今、語られたことを、私たちは知ることもなく、理解することもなかったからであります。

それでも、世尊は、私たちのために如来の知の相続人であることを思い出させようとしておられます。

それは、どんな理由によってでしょうか。

もちろん私たちは、如来の真実の息子であると言われてはいますが、なお劣ったものに対して信順の志の力があることを見いだされたならば、世尊は私たちに声聞ではなく、菩薩という名前をつけられたでありましょう。さらに世尊は私たちに二つの企てをさせられました。一つには、菩薩たちの面前で、私たちのことを、劣ったものに信順の志を持つものと言われ、二つには、その私たちを勝れたブッダの覚りへと向かうように励ましてくださったのです。

そして世尊は今、私たちに信順の志の力があることを了解されて。声聞・独覚・菩薩をはじめ、あらゆる衆生がブッダになれるという、この一仏乗の教えを説かれました。このようにして、世尊よ、私たちは次のように申し上げます。

「私たちは、如来の知見に対して無関心でありましたが、あたかも如来の息子(菩薩)たちが、この一切を知る仏の智慧、一切智という宝を得たのと同様に、私たちは願望もせず、希求もせず、探求もせず、考察もせず、欲求もしなかったのに、一切を知る仏の智慧という宝を実に思いがけずに得ました」と。

以上が、聖なる百蓮華のように最も勝れた正しい教え、という法門の中の「信順の志の章」という名前の第四章である。

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