
前回からですね、僕はまさに目から鱗の会談ですよね。目から鱗の「この世は仮の世界」なんです。で、これまでが前回までのお話しで、今回もよろしくお願いします。

で、この「徳」を積みますよね。これはいつか満期が来るんです。あるポイントまで来るとあることが起こるんです。それを実は私たちは目指しているんです。特にお坊さん出家者はそうなんです。この仮の世界で、経済的に、精神的にキツイとかおられると思うんですけど、その山を越えると違う世界が来るので腐らずこの「徳」のポイントを貯め続けることが大切なんです。それも法華経に書いてあるんです。「苦海」と書いてあるんです。苦しみの海。もう真っ暗闇の中なので上か下かも分からないくらい苦しい世界がこの世にはある、でもそれを抜け出す方法は、ここはあくまでも仮の世界なんで、できる限り生きようという努力をしなさいと書かれていて、それをしていると、やがてこの「徳」が生まれて来るんです。で、ある一定の「徳」まで行くと、仏さまの使いの方が来てくれて、助けてくださるという現象が必ず起こるんです。これは物理学的に起こるんです。物理学的に仏さまが、あの苦海でなんだかんだ苦しいながらも毎日人の為に生きて、騙されながらも毎日頑張っていたら、「変化の人を遣わして、これが為に衛護となさん」というのが出てくるんですけど、一見人に見えたり、猫ちゃんに見えたり、ワンちゃんに見えたりするんですけど、実はそれは仏さまが遣わした「変化の人」で、その人を仏さまが操って、徳を積みながら頑張っているその人を助けるという現象が必ず起こると書いてあるです。だから決して「徳」を失ってはならないと書いてあるんです。ところが人間は苦しい、精神的にも経済的にも苦しいといった時って「徳」を全く積めない状態に精神がなると書いてあります。つまり拗ねてしまうんです。「なんで自分だけがこんな苦しい目にあうのか」と、だんだんと怒りで溢れてしまう。「徳」は森や林に例えられるんですが、お経に出てるんですけど、一番弱い天敵があるんです。それが火なんです。

それは「怒り」ですか。

そうなんです。怒るとせっかく育ててきた「徳」に火をつけてしまうようなものなので、ゼロポイントになってしまうんですよ。

怒りは「徳」の天敵なんですね。

よく「自ら命を絶ちたい」という方がおられます。絶対損なのでやめてほしい。せっかく今まで積んできた「徳」というのが、苦しい「苦海」において自ら命を絶ってしまうと、ポイントがゼロになってしまうんです。人間として生まれて来ただけで、これはなかなか人間に生まれて来ることはできないんですよ。とても高いポイントの人たちだけが人間に生まれることができるんです。で、そのポイントを失うんですよ。いわいる苦しみに負けてしまう。そうなってしまうと、今度は虫とか、動物とかに生まれてやり直す可能性があるので、自ら命を絶ってしまうということだけは、やめていただきたいです。

そうなんですね

お釈迦様が生まれて、すぐに七歩歩かれて述べられた言葉で「天上天下唯我独尊」とありますが、これはどういった意味かというと「私は全世界全宇宙でただ唯一の尊い存在だ」という意味で、これだけ聞くとなんと偉そうな赤ちゃんだということになりますが、そうではなくて「我」というのは何をさすかというと、お釈迦さま一人のことではなくて、皆さんのことでもあるんですね。

私も非常に貧乏な時があって、電気ガス水道が止まってしまうという経験をしたことがありまして、完全に私はこの世は地獄だと思い込んでいたんですけど、その地獄から脱出する方法があるんです。

まずですね、「地獄界」というのはこの世にある。この世にある地獄というのは「怒るは地獄」というふうに言うんですね。「怒るは地獄」、これはどういうことかというと、腹が立っている人は地獄にいるのと一緒だということなんですね。地獄というところは、そもそもめちゃくちゃ孤独な場所なんです。誰からも助けてもらえない人、この人は地獄に落ちているんですね。ですから、私も貧乏時代は完全にひねくれてましたから、すぐに腹が立つんですね。「ジュースおごりましょうか」と後輩に言われたときには「なんで後輩におごってもらわないといけないんだ」と勝手に腹を立てていました。親切でせっかく言っていただいていたのにすねてしまっている自分がいるんですね。すぐ怒る短気な人の周りには誰もいなくなるんですね。神や仏も寄り付かなくなるんです。「怒」という字ですね、奴の心と書きますけども、だいたい怒っている人は他人の責任にしていますよね。

地獄の一つ上の世界のことを「餓鬼界」というのがあるんですね。
「むさぼるは餓鬼」といいまして、よく子供のことを「ガキ」とか言いますけど、どういうことかというと、子供さんというのは何でも欲しいものがたくさんあるんですよね。コンビニに連れて行くと「あれも欲しい」「これも欲しい」と言いますよね。欲に追いかけられている人のことですね。ですから「餓鬼界」に落ちた苦しみは「足るを知るまで続く」と言われています。

餓鬼界の一つ上の世界のことを「畜生界」といいます。
これは動物の世界です。「愚かは畜生」といいます。
愚かは何かというと無知です。何が無智かというと善悪が分かっていないんですね。
ネコちゃんだったら壁を引っかいたり、ワンちゃんだったら何かに嚙みついて壊してしまったり
でも、ネコちゃんもワンちゃんも、善悪を教えてもらってないので仕方がないというものなんですが、教育を受けたネコちゃんなんかはトイレできちんとおしっこなんかもしますし、ワンちゃんなんかは、もう「畜生界」を抜け出して、盲導犬のような人間よりも偉いワンちゃんなんかもたくさんいるんです。
残念ながら、人間が動物かしている世界がありますね。
例えば、ニュースなんか見ていると、放火事件があって犯人が捕まって「なぜあなたは火をつけたんだ」と尋ねると、「イライラしてたから」と答えていますね。
もう、善悪が分かっていないんですね。イライラしても火をつけてはダメなんです。むしゃくしゃしたから人を殴ったりして傷つけてはダメなんです。それを理解できていない人がこの世界にはおられるんです。
そういった人を、愚かな行為、愚かな人といって、仏教では動物と同じだというふうに見るわけです。

そして、畜生界の一つ上の世界のことを「修羅界」といいます。
この世界は、戦争やいさかいが絶えない世界です。
「諂曲なるは修羅」といいます。
諂曲の意味は、媚びへつらうといった意味や、慢心するといった意味も持っているんです。
こういった方は喧嘩の絶えない世界にいることが多いんです。
慢心していますから、裏での本音はどうかというと、「自分が絶対正しい」と思っているわけです。ですからもう「俺が言うから間違いない」というふうに言い張って譲らない人というのは反対意見とぶつかって必ず喧嘩になってしまう。
これが「諂曲なるは修羅」という仏教の中でいうところの戦争の世界なんですけれども、よく聞かれるのが「戦争を止めるにはどうすればいいですか」と聞かれるんですが、仏教では「愛が邪魔をしている」というんですよね。
愛染明王とかおられますけど、愛を断ち切るための神様なんです。愛に執着してしまうと戦争が起きてしまう。愛欲に依りすぎると争いが起こってしまう。国と国との争いもそうですよね。国を愛するがゆえに、守るために戦争が起きてしまう。

次にですね、私たちの住む世界です。
私たち人間ですね。人間はどういったものかとお経に書かれているかというと「平らかなるは人なり」と説かれているんです。
いつも平常心で一定の感覚で行くのが人間なんですね。
「一番付き合いやすい友人、友達になりたい人はどんなひとですか」と問われたときに「いつもテンションが変わらない人」という人が一番になっていました。
このことからも分かるように、波風が無い感覚でいられる人が人間なんですね。
私のイメージとしては武士とか侍と呼ばれる人たちというのは、少しのことでは微動だにしない、そういった方が人間なんですね。怒ったり、悲しんだり、恐れたり、狂喜したり、思い悩んだり、しすぎないことですね。
物事というのは、変化が急にあるものだと覚っていれば、平らでずっといられるんです。
とにかく人間というものは平常心でいることなんです。
そしてこれを知っていれば天国と同じことなんですけど・・・

「喜ぶは天なり」
何事もありがたいな、雨が降った時でも、「傘をさしていくのは面倒だな」など考えるのではなくて「作物が育つからよかったな」「水に不自由しなくて助かるな」とか、何事にも感謝していくんですね。ゴミが落ちていたら「拾うチャンスをいただいた」とか、困った人がいたら「助けるチャンスをいただいた」とか、何事もありがたいと考えて行くと、私たちは必ず人間界においても天界となるんです。例えるなら「あなたの人生がまるで新幹線のようにゆったりと座っていてもかってに目的地に到達する」ようにうまく行くようになります。
私たちは何事にも感謝していれば必ず幸福になれます。
「怒るは地獄」の人たちは「あいつらのせいで」と人のせいによくしますね。
でも天界にいる人はどうかというと「私みたいな情けない人間だけれども周りの人が助けてくれるおかげで生きていられる」と感謝の念で生きているんですね。

ですから、どうか皆さん、しっかりと「徳」を積んで、何事にも感謝しながら生きていくと、この世は天界となって、皆、幸せに生きられるとお経には書かれていますので、是非参考にされてみてください。
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